舞台「桃山ビート・トライブ~再び、傾かん~」がとにかく最高だった話

 

昨日、宇宙Six原くん担の友人に背中を押しに押され観劇致しました

舞台「桃山ビート・トライブ~再び、傾かん~」

が本当にもう控えめに言ってとにかく最高で最高で。いてもたってもいられず、このブログを書くに至りました。

 

歴史モノと音楽モノの創作が好きなため「ちょっと行ってみたいなぁ」と思っていたこの舞台。原くん担にその旨を伝えると尋常ではない熱量で「一緒に行こう」と誘われ、気付いたら東京行きの夜行バスを予約していました。はじめは原くん担の「付き添い」くらいの感覚だったのですが、鑑賞後には意気揚々とパンフレットを小脇に挟み駅までの夜道を歩いているのでした。まさか自分がこの舞台にここまで心酔してしまうとは。

 

近頃舞台を見に行っても「○○くん今日もかっこよかったわ」で終わってしまい、観劇しても「余韻の残らない・それっきり」なことばかりでした。正直、惰性で劇場に通っているような…感性が麻痺した状態にあるのだと思います。「観劇」という非日常な行為が日常に取り込まれすぎてしまっていたのでしょうか。

そんな思いの最中で今回「桃山ビート・トライブ~再び、傾かん~」(以下桃山ビート・トライブ)を観ました。鑑賞後の疲労感と日常に戻れないような何とも言いがたい浮遊感は忘れられません。私が忘れていた「観る」感覚が手元に戻ってきたとすぐさま感じました。頭に繰り返す三味線の音、目がくらむ絢爛なステージ、客席を駆け抜ける重み。五感に訴え離れてくれない様々に、ただぼーっと浸ることしかできませんでした。

 

ここまでにこの舞台が私の心から離れてくれないのは何故なのだろうかとひたすらに考えました。その結果「桃山ビート・トライブ」は現代社会のアンチテーゼであるため観客(私だけかも知れませんが…)に「違和感」を与えており、鑑賞後に「考える」きっかけを生み出しているのではないかと結論づけました。

「???」って感じですよね…?私も自分で書いてて「???」って感じですので一度この結論に至るまでに考えた事を整理したいと思います。

※ここからはごりごり個人の偏屈見解ですので「何か言ってんなこいつ」程度の気持ちで見てやって下さい…!

 

▼舞台「桃山ビート・トライブ」は現代社会のアンチテーゼである

①現代人を映し出す小平太

この舞台の主人公の1人である小平太(原嘉孝くん)は現代人の姿に重なる部分を多く持っているように思われました。笛職人の父を振り切り笛役者になったものの出雲の阿国率いる一座で阿国の"引き立て役"として笛を吹く日々。自分は自分として笛を吹き自由に自己表現をしたいのに、個性を抑圧されるストレスに悶々としている姿が印象的でした。その小平太の姿はまさに我々現代人と同じではないでしょうか?それぞれに好きなこと・得意なこと・やりたいことがあり、皆それを表現したいと願っている。しかし社会を取り巻く同調圧力や偏見・差別がそれを許さない。目立たないように・皆と同じようにと我々を縛るものがそこには確かにあるのです。

 

 

②現代人の理想と人間本来の姿を映し出す藤次郎とちほ

盗んだ三味線で芸を磨きなり振り構わず天下一を目指す藤次郎(山本亮太くん)と心の赴くままに踊り、舞うことによって自己表現をするちほ(水野絵梨奈さん)。彼らは「現代人的」である小平太とは異なる性格をもっている、「現代人の理想的」または「人間のあるべき」存在であると考えます。権力やお金に束縛されず、自分の好きなように自由に生き、平坦で安全な暮らしより刺激的な暮らしを追い求めている2人。元より人間には様々な欲望(や理想)が有り、その欲望(や理想)の達成こそが人としての幸せであると私は考えます。しかしその達成に権力・周囲の圧力・差別等様々な障壁が立ちはだかるのです。劇中の2人はそういった障壁に正面切ってぶつかり次々にぶっ壊してまわっていました。我々も彼らの様に自由を希求し「強さ」を殴り倒したいものですが、様々なリスクが纏わり付いてくるため簡単にはできません。

 

 

 ③文化相対主義*1的なちほ一座

 現代社会には様々な差別や偏見がはびこっています。性別・人種・職業・出生など一つずつ挙げればキリが無いほど存在し、その一つ一つが実に深く根を張っているのです。

 

「桃山ビート・トライブ」では弥介(副島淳さん)という黒人の太鼓叩きが職場や一座で個性を全面に出しながらも受け入れられている様子が描かれています。劇中の「信長様はこの黒い肌を気に入ってくれた」というセリフや、ちほが弥介が持っている母国の楽器を褒めるシーン、弥介の訛った日本語を冗談めかして可愛がるシーンがそれをよく表しています。相手の容姿や話し方を受け入れ、異国の文化を尊重するちほ一座の面々(&助左衛門達)はまさに文化相対主義的だと感じられました。グローバル化が進み多文化への理解を深める動きが進んでいるとはいえ、まだまだその差別や偏見は残ります。また現代日本でも「正しい日本語」を強く求めたり、他国で独自の発展を遂げている日本文化を批判する番組が人気を博したりと自文化主義*2的側面が存在するのです。

 

また藤次郎が三味線の皮の張り替えやチューニングを頼みに頻繁に通っていたおじいさん。彼は当時人々から「かわた」と呼ばれた被差別民かと思われます。「賤業」の一つである「かわた」は主に革製品の加工などを行う人々で、「動物の殺生を生業としている卑しい人間」と認識され差別を受けていました。そんなおじいさんに対し、同じ「河原者」ではありますがフラットに親しく頼っている藤次郎の姿は非常に新鮮に写りました。そもそも被差別民というナイーブな部分が切り取らず劇中に組み込まれていることに大変感動しました。教科書では大きく触れられないことを取り上げる。さすが「もっと歴史を深く知りたくなるシリーズ」…!!! 現在でも食肉加工業に従事する方々や清掃業に従事する方々への職業差別は陰ながら存在します。職業がタブー視されることとはどういうことであるのか。藤次郎とおじいさんのシーンを観て改めて考えさせられました。

 

④藤次郎が求めた「傾く」こととは

「いざや、傾かん!」という「桃山ビート・トライブ」には欠かせない藤次郎のかけ声。この言葉についてよく考えてみると色々なものが見えてくるのではないでしょうか。

そもそも【傾く(かぶ-く)】とは…自由奔放に振る舞う、異様な身なりをする、常識外れな言動をする等の意味があります。

 

阿国がはじめたかぶき踊りもこの【傾く】から付けられたものです。劇中ではあまり描かれていませんでしたが、かぶき踊りは女性が男装を男性が女装をし興じられたと言われています。この「女が男の格好をし男が女の格好をする」ことが【傾いて】いるとされたのです。では、かぶき踊りをしている阿国は「傾いて」いるのか?

 

阿国の他にも劇中には「かぶき者」と呼ばれる、太刀を持ったり派手なファッションをしたりしている若者が登場します。奇抜で異様な格好をした彼らは【傾く】という言葉通りの「かぶき者」と言えるでしょう。では、「かぶき者」の彼らは「傾いて」いるのでしょうか?

私が思うに、彼らの【傾き】は藤次郎の「傾き」観にはそぐわないのではないでしょううか。阿国とかぶき者は「桃山ビート・トライブ」中で権力に媚び・金銭に執着する・排他的かつ暴力的な人間として描かれていたように思われます。

 

藤次郎が「いざや、傾かん!(さあ、傾こうぜ!)」と叫んだ後に行われるパフォーマンスは先に述べた性格とは異なります。どこまでも自由であり、誰にでも分け隔て無く届く魂の演奏(まさしくロックンロール!!)であるのです。「いざや、傾かん!」の後に行われることから考えると、藤次郎が思う「傾く」ことは自由に思いのまま感情表現(自己表現)をすることと定義付けられるのではないでしょうか?

「自由に自己表現すること」という当然の権利を【傾き(=おかしなこと)】と自ら表現する藤次郎。これは彼らが生きた時代は人間の権利など語られるような時代ではなかったことから、世間の風潮(権力者に服従することが当たり前、権力者や有力者の前では自分を押し殺すのが当たり前)に真っ向から抗う自らの主張を「傾く」という言葉でしか言い表せなかったのではないでしょうか。

 多数派とは異なる考えや新しい考えが形式化されていないという理由だけで「おかしい」という烙印を押されてしまう。 現代社会にもこのような事象がみられるような気がしてなりません。

 

⑤まとめ

 ①~④まで個人的に気になった箇所について紹介させていただきました。

「桃山ビート・トライブ」の世界では、①で「現代人的」と紹介した小平太は最終的にしがらみから自己を解放し、②で紹介した「現代人の理想的な」藤次郎とちほと共に自由な演奏をすることが出来ています。しかし我々はどうでしょうか?③で紹介したちほ一座のように誰にでも分け隔て無くフラットな態度で生きているでしょうか?④のように誰かを【傾いている】とみなしたり、はたまた【傾いている】とみなされたりしていませんか?

ここまで紹介したような考え方のもと、私は「桃山ビート・トライブ~再び、傾かん~」は現代社会のアンチテーゼであると結論づけました。

 

 

 

結論づけた所で話を元に…。散々と語って参りましたが、上で述べたような「私はどうだろう?」「私達の社会はどうだろう?」という疑問こそが最初に述べた「違和感」の正体であるのです。「違和感」は自分や自分の周りを「考える」きっかけとなります。

いつも見ていた舞台と今回観た「桃山ビート・トライブ」の違いは「違和感」の有無にあるのだと私は納得しました(勿論他にも沢山考えさせられる舞台はありますが…!)。観客を考えさせることは観客を巻き込むことに等しいとも感じます。

まさに今回私は「桃山ビート・トライブ」に巻き込まれ心を乱しに乱されまくったわけです!!!!!!!!!

 

色々あれやこれや言って参りましたが、「とりま桃山は最高卍」ということが皆さんに伝わりますと幸いです!!!!!!なんで終わっちゃうの!!!!!!もう一回観たかったよ!!!!!!!

小論文かって長さとなってしまいましたが、ここまで読んで下さった方!!

お付き合いいただきありがとうございました!!!!!!!!

 

P.S.りょうちゃん全てが天才すぎやし、原さん声が爽やか最高すぎる!!

俳優さん皆美人過ぎるしカッコ良すぎるしもう最高卍

あと原担の友達この舞台に出会わせてくれてめっちゃありがとうアンタ最高やで卍

 

 

*1:全ての文化は対等であり外部の価値観では測れないという考え方

*2:自分が属する集団の文化が最も正しいという考え方